渡邉代表取締役社長のストーリー
生まれ~小・中・高校時代まで
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生まれ~小・中・高校時代まで
生まれたばかりの私
私は1976年9月5日に
瀬戸内海にほど近い愛媛県今治市の片田舎で生まれました。
育った実家には、両親、祖父母、曾祖母、兄、私の7人が住んでいました。
お風呂は五右衛門風呂で、お風呂に入る時は自分で薪をくべることが決まり。
たまに薪を入れすぎると熱くなりすぎて怒られた記憶もあります。
また、玄関の中には燕の巣があり、常に玄関の戸を少し開けていました。
そのため、夜中には大根泥棒に入られるということさえありました。
(左)真中が父親(右)後方右が私の母親(私は前方中央)
両親はというと、
この人の姿を見たら近所の子供たちだけでなく、
犬も大人も逃げだすほどおそれられていた超厳格な父と、「棚から牡丹餅」の言葉が大好きな明るい母に育てられました。
【英人】という名前は、人よりすぐれた人になってほしい、
人の為になるような人になってほしいという願いを込めて、祖父と父がつけてくれたそうです。
兄と私(3歳前後)
兄弟は2歳年上の兄がいます。
小さい頃は何をするにもいつも一緒、何をしてもいつも怒られるのは兄でした。
心の広い兄には感謝しています。
こんな家庭に育つと身体は人一倍丈夫になります。
小学校では皆勤賞、
中学校でも皆勤賞、
さらに高校でも皆勤賞(一度遅刻したため皆勤賞を逃してしまいました)
とはいきませんでしたが、学校を休んだことは一度もありません。
6・3・3で12年、この期間で熱が出た記憶は一度しかなく、
大きく体調を崩すことがなかったため、
風邪を引いても学校を休むという発想すらなかったのです。
知らないって怖いものです。
大学時代~就職、そして結婚
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大学時代~就職、そして結婚
卒業旅行先のカナダにて。
分かりにくいですが、
右手前に私が映っています。(笑)
大阪工業大学工学部機械工学科に入学し、
実家を離れ一人暮らしをはじめました。
親には申し訳無く思っていますが、
勉強よりもアルバイトと遊びに時間を投資。
卒業旅行ではカナダに行き、大自然と触れ合うことで
自分の基準値が一瞬で変わるという経験もしました。
大学での生活を通し、人の温かさや学校以外で勉強する楽しさを知りました。
また、この時期に「7つの習慣」という本にも出会い、
今の自分形成が始まったのではないかと思います。
大学卒業後、技術者派遣会社に機械設計技術者として就職しました。
入社式では闘牛を実施する、新入社員の採用を1300人もするなど、一時世間でも話題になった会社でした。
しかし、本業ではなかなか上手くいかず、急激な業績悪化により、
技術者派遣に対する会社の考え方・方向性が大きく変わったため、
8カ月後、見切りをつけ退職しました。
技術者派遣会社当時の写真(右手前が私)
その後、機械設計技術者として早く働きたいという願望があったため、翌月に同業の技術者派遣会社に入社しました。
大阪営業所に入社したのですが、横浜で多く仕事があったため、すぐに横浜本社に転勤することになりました。
横浜では、大手自動車メーカーに勤務、数ヵ月後、派遣先の業績不振により帰社することになりました。
そこでの期間は短かったですが、自分が帰社する際にそこでお世話してくれた先輩が泣いてくれたこと、今でも忘れはしません。
流石にここまで立て続けに何か起こってくると、
苛立ちが募り、次に行くところはどうなるにしろ、自分で決めたいということで、
「遊園地関係のメーカーか宇宙関係のメーカーでないと行かない」
と自社の営業部長に申告したところ、
「ちょうど宇宙関係の仕事があるよ」と。
大手電機メーカーで、人工衛星搭載用電子機器の機械設計に従事することになりました。
引き寄せの法則を実感した瞬間でした。
ここで指導して頂いた方は仕事の環境も仕事の責任も私に与えてくれ、
「人間は、環境によって変わり、教えてもらう人によって人生は変わる」と実感しました。
自分ひとりの力は本当に小さいものです、今の私があるのはこの方のお陰だと言っても過言ではありません。
そして「私が設計したものが宇宙で活躍している」
これは、ちょっとした自慢と大きな自信になっています。
結婚式にて
そうこうしている間に、1年ほどの遠距離恋愛期間もありましたが、
6年近くの恋愛期間を経て、今の妻と結婚しました。
結婚式は、自分達で手作り感を出したいとの妻の想いもあり、レストランウエディングをしました。
式中は友人に司会をして貰ったり、ギターの弾き語りをして貰ったり、自分達の考えが形になることに嬉しさを感じました。
今度は私が友人から「自分の結婚式で幹事や司会をしてほしい」と何度か頼まれることがあり、引き受けることがありましたが、
「こんなに素晴らしい司会は初めてやわ」
「感動して涙が出たぁ」
と参列者の方から絶賛されました。
自分がしたことで周りの人が喜んでくれたことにやりがいを感じました。
そんな折、従兄弟の結婚式で祖父がしたお祝いのスピーチで
相手の御来賓の方々が涙々しているのを見て、度肝を抜かれました。
「何だこれは!何かが根本的に違う!相手の立場に立つこと!?想いを込めること!?」
そのスピーチには大切なことがたくさん盛り込まれていました。
それが今の自分の方向付けをしていると思います。
この頃から自分を表現するために「将来自分で会社をしたい」と強く思い始めたのです。
ちょうど関わっていた宇宙関係のプロジェクトの終了を目途に設計の仕事を辞め、
神奈川県から神戸市に戻り会社を退職しました。
それと同時に、起業するためには営業力・コミュニケーション能力が大切だ
と考えていたため、営業の道に進むことを決意していたのでした。
営業として転職~会社倒産
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営業として転職~会社倒産
太陽光発電システム販売会社に
在籍していた頃
(私は最前列左から2番目)
退職後、神戸にあった太陽光発電システムの販売会社に入社しました。
営業の仕事をしたい、
どうせやるなら営業の中でも難しいと言われる仕事を選びたいということで、法人営業やルート営業ではなく、訪問販売という個人営業を選びました。
そして、売れる営業ではなく、売れ続ける営業活動を徹底して行い、社内ではトップセールスを記録しました。
その影響もあって、4つあった営業所のうち、
明石営業所の支店長を務めることになりました。
しかし、入社から3年ほど経ったころ、会社の経営状態が急激に悪くなってきました。
一人また一人、会社を去っていく状態でした。
そんな状況の中で私たちは「会社を良くしていきたい」と考えていたので、
社長を含め話合いの場を設け再起に向けてプランを組み、すぐに実行しました。
しかし、後から知ったことですが、会社の実情はもっと厳しく、
今いるメンバーが最高の売上をあげても、会社は回らない状態でした。
どうしようもない苛立ちが募りましたが、
会社のことよりも、せめて今契約して頂いているお客さんだけは守りたい、工事だけは無事に終わらせたい。
その想いだけで、仕事し続けました。
気がつけば、私も給料3ヶ月分が未払いで、私と妻の夫婦仲は当然悪化していました。
「何しに会社に行くの?」
妻が怒るのは当然でしたが、私には明確に答えることができませんでした。
「ただ、ここで逃げ出したくなかった、部下もいる、みんなより先に逃げることは私にはできない 。
そして、私達を信用して契約してくださった少しでも多くのお客さんを守りたい。」
そんな想いとともに、今ここからいなくなることは育ててくれた親・兄弟、
お世話になった諸先輩方を否定されているようで嫌だったのです、ただそれだけでした。
それは幸いにも、私だけでなく会社のメンバーもみんな同じ想いでした。
だから頑張れたのです。
その甲斐あって、何とか支店が抱えているお客さんだけは、救えるところまできました。
もうここが潮時だと、会社のメンバーとも社長とも話合い、
明石支店を2009年9月末で閉鎖し、同日私は退職しました。
エコプラスワンの創業
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エコプラスワンの創業
スタッフと私
「やりましょう。絶対できますよ。」
前勤務先のメンバーに背中を押される形で2009年10月に創業しました。
奇しくも同月、前勤務先は2度目の不渡りを出し倒産したとのことでした。
その後、一年間の準備期間を経て、2010年10月に設立しました。
「メーカーとお客様の橋渡しとなり、そのお宅にあった最高のモノを提供したい」
「我々が関わることによって、お客様に経済的にも精神的にもよくなって欲しい」
「偽物は淘汰し、本物だけの会社にする」
「売って終わりの会社には絶対にしない」
こんな大切なことを決断できたのも、この準備期間があったからです。
会社名の「エコプラスワン」
エコだけではなく、それ以外にも何かをプラスしてお客様に提供していこう。
太陽光発電の販売を通して、お客様に喜びや感動を与えたい。
そんな想いを込めた会社名です。
初心を忘れず、強い想いをもって、これからも一歩ずつ歩んでいきます。